2003年11月04日

白川 浩道
債券市場はインフレ・リスクに鈍感



物価の下落は、消費税率引上げによる1997−1998年の一時的な上昇局面を除けば、1994年の半ば頃から始まった。1980年代後半の株価・地価バブルが崩壊してから、およそ3年程度の期間を経て、一般物価水準の下落が始まったのである。従って、物価の下落は丸9年続いたことになる。しかし、物価水準が反転上昇すること予想する市場関係者は依然として少ない。株価は、この数ヶ月間、上昇傾向にあるが、そうした現象についても、世界景気の一時的なリバウンドや、日本企業の合理化、コスト削減を評価した動きであるとみている投資家が多い。デフレの終焉を株式市場が先取りしたものであると考えているプレイヤーは少ない。日本経済におけるデフレの継続を予想する向きが依然として多い。

興味深いことであるが、国債市場も、日本経済におけるデフレ傾向の継続を予想している。大雑把に言って、国債市場では、物価水準が今後も長期間に亘って1%程度の下落を継続することが織り込まれている。プラザ合意を受けて、日本円の水準が切り上がった1985年以降について、実質長期金利(10年国債利回りマイナスGDPデフレータ)の平均を計算すると、3.4%になる。金融機関の破綻が集中した1997年から1998年にかけて実質長期金利はゼロ近傍まで急低下したが、それを除けば、概ね2.5%から4.5%のレンジに収まっている。このように計算された長期実質金利には政府部門のリスク・プレミアムが反映されている。1985年以降の実質GDP成長率の平均はおよそ2.5%であるから、財政プレミアムは長期的にみて平均0.9%程度ということになる。足元の名目長期金利は1.4%である。従って、仮に、実質長期金利が、財政プレミアムを割り引いた長期平均値の周りを変動していると考えた場合、債券市場で織り込まれているGDPデフレータの下落率は1%程度であると考えられる。

しかし、平均的にみて1%程度の物価下落率が今後10年にわたって継続する――このことは、1994年から始まったデフレが約20年継続するということに等しい――という国債市場の見通しは現実的であろうか。答えはノーである。経済構造の変化と、それを過小評価している政策当局の対応によって、近い将来、物価水準が反転上昇する可能性が高まっているからである。

デフレ経済である日本において、物価水準が再び上昇し、インフレが生じるとすれば、それには、3つのシナリオがある。

まず、第1には、個人消費が回復力を強め、景気が持続的に拡大することでインフレ圧力が緩やかに復活するパターンである。これは、自律的なインフレと呼ぶことが可能である。第2には、リフレ政策の積極化によって、株価・地価といった資産インフレが再燃するシナリオである。これは政策主導のインフレと言える。この場合、企業と銀行のバランスシートが同時に改善することから、設備投資の成長力が大きく高まることが想定される。そして、第3は、崩壊型のインフレである。これは、デフレの長期間継続によって引き起こされる債券市場の崩壊を受けて、日銀による公的債務マネタイゼーションが急拡大、ハイパー・インフレが生じるというものである。最悪のケースである。

さて、これら3つのインフレ・シナリオに関して、我々は次のように考えている。

  • 「自律的なインフレ」の芽が出始めている。労働市場の需給タイト化、1人当たり賃金の下げ止まりが鍵となる。

  • 加えて、「政策主導のインフレ」の可能性が強まっている。政策当局は、自律的なインフレの可能性を過小評価している。なお、金融システムの再生と財政部門の健全化が待ったなしの状態にあることが、政府のリフレ政策導入を後押しする。

  • この結果、デフレが長期間にわたって放置される確率は低下した。債券市場が破綻するシナリオを描く必然性は小さくなった。

自律型インフレ・シナリオは、高齢化の進展にもかかわらず、現役世代消費者のコンフィデンスが悪化せず、個人消費が拡大することを前提としている。なぜ、そのような予想を立てることが可能なのであろうか。それは、消費者の将来所得に対する期待が回復する可能性が高いからである。ポイントは2つである。まず、第1には、雇用環境の趨勢的な改善である。ハードランディング型の企業整理が減少し、再生型の企業支援が増加する見込みにある。さらに、ベビーブーマーの退職によって、労働供給が抑制される。この結果、労働需給はタイト化する。第2には、1人当たり賃金の下げ止まりが予想される。利益対比でみた人件費の調整はかなり進展した。ベビーブーマーが退出すれば、企業は若年層に対して高い賃金を払う余裕ができる。また、労働市場におけるミスマッチが拡大していることも賃金を支えることになる。消費者は賃金の下げ止まりを認識できる環境にあると言える。なお、公的年金制度の維持可能性に対する懸念から、個人消費が抑制されるという見方もあるが、こうした見方は当たらない。将来における雇用情勢改善の下で予想される賃金回復のペースが、想定される社会保険料率の引上げ幅を上回るものとなれば――その可能性は十分にある――、個人の消費性向が社会保障制度問題によって大きな影響を受けることはないであろう。

このように、将来の増税懸念が個人消費を抑制する可能性に関しては、名目賃金の上昇ペースと、社会保険料率の上昇ペースの関係で決まってくるものであり、先見的には明確な結論を出すことが困難である。しかし、社会保障負担の増加に対する懸念が個人消費の回復を抑制するのではないか、という見方は、政策担当者の間でかなり支配的である。そして、そのために、政策当局は、結果として、上記で指摘したような、自律的なインフレ・シナリオをかなり過小評価する傾向がある。日銀や内閣府等の政策担当者からは、輸出や設備投資の循環的な回復に関するコメントは聞かれても、個人消費の回復に関する指摘がなされることはまずない。

このことは、自律的なインフレ・シナリオに対する不信感の継続によって、予防的なリフレ政策が導入される可能性が高まっていることを意味する。政策当局のデフレ・トラウマは、資産インフレが再燃する確率を高めるのである。政策当局がデフレからの脱却を従来にも増して真剣に考慮しているのは、デフレのコストが大きくなりすぎたからである。デフレのコストとしてもっとも大きなものは、金融システムと国家財政の破綻による、債券市場の崩壊、経済混乱である。そこでは、国民の間の所得分配も大きく歪み、社会不安も高まる。これを事前に予防しようとする意思が、政策当局の間でかなり明確になってきたのである。具体的なイベントとして、政府・日銀が重視するのは、2005年4月のペイオフの全面解禁と、2004年度の年金制度改革である。2004年度の年金制度改革については、参議院選挙との関係から、増税を明確に打ち出せないため、1年先送りになる可能性が高い。つまり、年金制度改革や税制改革(ともに方向性は増税)も2005年4月が節目となる。

政府・日銀は、2005年春までに、銀行再生に目処をつけるとともに、財政健全化を推進しやすい環境を作らなくてはならないのである。あと1年半でそうした状況を作るには、リフレ政策によって、株価、地価の上昇を煽る必要がある。政策主導のインフレになる可能性も着実に高まっているのである。具体的には、日銀による物価参照値導入、さらなる信用リスク・テーク(ETF購入等)、が柱となる。

今回の景気回復は、設備投資と外需だけではなく、来年にかけて個人消費への広がりを持つであろう。そうした中で、消費者物価だけではなく、GDPデフレータでみたデフレ圧力の緩和も確認される可能性が高い。さらには、日銀によるデフレ退治の姿勢は今後益々強まってくるであろう。債券市場は将来のインフレ・リスクに対してあまりに無防備、鈍感ではないだろうか。

以 上
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