2003年09月29日

白川 浩道
さらば賃金デフレ



賃金デフレが終息する可能性が高まっている。ここ数年、企業リストラ、雇用不安、賃金削減、デフレの深刻化、といった、いわば、賃金デフレの話題が注目を集めてきた。しかし、そうした見方は既に過去のものになりつつある。

7月末のニュースレターで既に指摘したが、UV曲線と呼ばれる曲線(失業・欠員率曲線)で異変が生じている。UV曲線とは、縦軸に失業率、横軸に欠員率をとったものである。欠員率とは、(有効求人数−就職件数)/(有効求人数−就職件数+雇用者数)として計算される。早い話、企業からみた求人の「非充足率」である。欠員率が高い状態では、企業は自分達の欲している求人が十分に充足されていないと感じることになる。UV曲線は、通常、景気の後退局面では、北西方向に動くはずである。なぜなら、失業者の増加(失業率の上昇)と企業の求人意欲の低下(求人非充足率の低下)が同時に生じるとみられるからである。景気後退局面では、雇用市場における需給環境が緩和するわけである。しかし、2001年の景気後退局面では、UV曲線が北西方向に動かず、ほぼ垂直に北方向に動いたのである(図表1)。1990年から1994年、1997年から1999年にかけての景気の後退局面では、ともにUV曲線が理論どおり北西方向に移動している。その意味で、2001年にかけてのUV曲線の動きは大きく注目に値する。

図表1
図表1

UV曲線のこうした動きは、企業の求人の非充足感、逆に言えば、雇用の過剰感が、2001年の景気後退局面ではあまり後退しなかったことを意味している。企業は、ITバブル崩壊後の急激かつ極めて深い景気調整局面においても、求人水準を維持し続けた。UV曲線の裏側では、有効求人や新規求人の高止まり現象も観察された。有効求人数は、1998年央から1999年央の局面では120万人を切る水準まで一気に落ち込んだが、2001年後半から2002年前半にかけての局面では、140万人以上の水準が維持された。この水準は、1996年の景気回復局面をも上回るものであり、如何に企業の求人意欲が高水準で維持されていたかを端的に物語っている。また、新規求人も同様である。産業別の求人動向は新規求人でみるしかないが、2001年の景気後退局面では、サービス業、卸・小売・飲食店業における新規求人の高止まりが顕著であった。

このように、UV曲線や有効求人関連データは、「企業の労働需要が景気循環とは無関係に趨勢的に高まっている可能性」を示唆している。そして、そうした企業の求人意欲の高さをもたらしているのは、雇用市場における需要と供給のミスマッチの拡大であると考えられる。高齢化の進展、若年労働者の就業に対する意識の変化(定職を持たない若年労働者、いわゆるフリーターの増加)、経済のIT化、高度化に伴う熟練労働者の不足など、労働の供給面における制約は増大する傾向にある。その結果、労働需給が趨勢的にタイト化し、それが、UV曲線や求人関連データの異変となって現れていると判断される。

雇用市場における需給のタイト化の帰結が賃金の上昇となることは言うまでもない。すべての産業、あるいは、すべての雇用者の間で、賃金が回復傾向を示すまでには一定の時間がかかるものと予想されるが、サービス業や製造業の一部において、早晩、賃金が趨勢的な上昇局面に入る可能性が高いとみられる。実際、毎月勤労統計を用いてサラリーマンの現金給与総額の動きをチャートにすると(図表2)、ここ1年程度の賃金の回復がいかに急激なものであるかが容易にみてとれる。賃金の趨勢的な上昇は、「近い将来」ではなく、「既に」始まっていると結論すべきかもしれない。

図表2
図表2

今後、団塊の世代が引退時期を迎えてくることで、労働需給は益々逼迫する可能性が高い。他方で、若年層が終身雇用システムに簡単に回帰するとは思えない。30代、40代の現役の働き世代には、労働面で大きな負荷が掛かることになる。リストラどころではなく、逆に、残業や休日出勤といった事態が恒常化する可能性が高い。現役世代はそうした労働面での負荷の高まりに対して賃金の引上げを求めるであろうが、企業の方もそうした賃上げ要求に喜んで応じていくであろう。なぜなら、団塊世代の引退によって高給者のウェイトが低下するからである。30代、40代の働き盛り世代に高めの給料を支払う余裕は十分にあるはずである。私の試算によれば、日本経済が実質2%弱の成長を維持した場合、30代、40代の世代の賃金は物価水準で調整した実質のベースで少なくとも毎年4−5%は伸びることになるとみられる。

また、経済のソフト化、サービス化の動きが待ったなしであることも忘れてはならない。多くの製造業では、ロボット化等によって労働投入をまだまだ抑制できるかもしれない。しかし、経済のサービス化、ソフト化の下で、労働を機械で代替できない産業が相対的に増えてくることになる。日本経済が全体として労働の投入を削減できる可能性は低いのである。

このように、今後、賃金に上昇圧力がかかっていくとして、それが物価水準そのものに反映されていくのであろうか。答えはイエスである。特に、サービス価格の上昇が起点となって、全体としての物価上昇が始まる可能性が高い。そもそもサービス価格は、政府規制の影響や公共サービス価格の硬直性もあって、これまで、資本財の価格や消費財の価格に比べて相対的に安定的に推移してきたが、重要な点は、サービス価格が賃金の影響を最も強く受けると考えられることである。個人消費のうち、いまやサービス支出は6割程度を占めるが、加えて、統計的にも、サービス価格は、賃金(ユニット・レイバー・コスト)との相関が最も高く、かつ安定している。賃金が上昇した場合、サービス価格には最も素直に反映されやすいということである。サービス価格が、国際的な財の需給関係や為替相場変動等の影響を受けないことがその背景となっているとみられる。

さらに、サービス業は、製造業に比べて労働集約的であり、人件費比率が高い。労働需給のミスマッチを反映した賃金の上昇がサービス業で生じれば、それがサービス価格に反映される可能性はかなり高い。実際、最近の消費者物価データをみると、医療制度改革といった特殊要因を除いたサービス価格が堅調に推移しており、サービス・インフレの兆候が現れ始めていると言える。

賃金と物価のスパイラル的な下落として定義される賃金デフレについては、その終焉の時期が迫っているとみられる。世界的な製造業の過剰設備問題等を背景とした資本財デフレは簡単には終わらないだろう。また、消費財デフレについても、米国経済が弱体化する中で趨勢的な円高が継続する可能性があり、その解消を一気に望むわけにはいかない。しかし、賃金とサービス価格のスパイラル的な上昇が始まる条件は整った。そうした下で、来年の春までには、国内消費者物価の安定的なプラス化が実現する可能性が高い。興味深いことに、内閣府の消費動向調査によれば、消費者のデフレ期待は、2001年12月をピークに緩やかに後退している。日本の消費者は既に嗅覚でデフレの終焉を感じとっている可能性がある。

以 上
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