2008年10月14日

塚崎 公義

 

銀行救済と民主主義のコスト


 



(はじめに)
 米国で、銀行救済に税金を用いることが世論の抵抗等により難儀しています。その間に世界の株式市場では何兆ドルもの資産が消失しました。これは、ある意味で「民主主義のコスト」と呼べるでしょう。金融危機時にはこのコストが高くつく場合が少なくありません。今回は、このコストについて考えてみましょう。


(銀行救済に反対する人々)
 なぜ税金を使って銀行を救う必要があるのでしょうか。それは、銀行を救わないと、金融危機が深刻化して経済に深刻な打撃を与える可能性が高いからです。
 では、どうして銀行救済に反対する人がいるのでしょうか。反対する人は、いくつかのグループに分けられます。第一は、理論派で、「銀行は民間企業であり、自己責任で金儲けを図っている点では一般企業と異ならないのだから、銀行だけ救うのは理屈が通らない」という正論、「銀行を救済すると、銀行が放漫経営をするようになるから、救済すべきではない」という見せしめ論、「経済のことは神の見えざる手に任せるべきで、政府は経済に過度に介入すべきではない」という市場メカニズム信奉論、などがあります。第二は感情論で、「高給を貪っていた連中を国民の血税で救うことは許し難い」と考える人々です。非合理的ではあるのですが、金融危機に際しては、これが望ましい政策を阻害する重要な要因として立ちはだかる事が多いので、留意が必要です。第三は、政治家の思惑です。「銀行救済が国のためだ。しかし、自分の利益のためには反対票を投じるべきだ」という政治家が多いと、通るべき法案が通らないことになりかねないのです。
 このうちで、民主主義のコストと言えるのは、第二と第三です。


(説得するのが難しい感情派)
 感情論は、容易に理解することが出来るでしょう。「口だけが美味しいものを食べているのを不公平だと怒った手がストライキを起こして、口に食べ物を運ばなくなった。そうしたら、手も栄養が来なくなって大いに困った」という童話を思い出させる話です。
 非合理的ではありますが、彼等を賛成に回らせることは容易ではありません。第一に、感情的な人々は理屈で説得することが難しいからです。第二に、銀行救済の必要性を説明すること自体が危険だからです。第三に、説明しても他人事だと思われて聞いてもらえないからです。第四に、メカニズムが複雑で理解されにくいからです。
 第一に、古今東西、銀行員というものは庶民に嫌われて来ました。銀行員に言わせれば、嫌われる理由は無いということかもしれませんが、それはともかくとして、銀行員を嫌っている人に対して、「あなたの税金で銀行員を助けます」と言えば、賛成を得るのは非常に難しいということです。実際には、助けるのは銀行員だけではなく、国民経済全体であり、納税者全体なのですが、表面的には銀行員だけを助けるように見えてしまうということが、不幸の始まりだと言う事です。
 第二に、銀行を助けるためには、納税者の説得が必要で、そのためには「このままでは銀行が危ないから助ける必要がある」という宣伝をしないといけません。しかし、これは大変危険なことです。宣伝をすればするほど、預金者たちが不安になって銀行預金をおろすようになり、本当に銀行が資金不足で倒れてしまう危険性が高まるからです。
 第三に、危険な状態であることを宣伝したとしても、一般の納税者には他人事のように思われて、銀行を助けないと自分が困るのだということが実感できない、ということが問題となります。
 金融システムはダムのようなもので、不良債権問題という洪水が来ても受け止めてしまうので、下流の住民である納税者には洪水が来ていることさえ実感出来ません。一部の借り手が返済できなくても銀行が不良債権を抱えて苦しむだけで、預金者や一般の借り手には被害が及ばないからです。しかし、洪水が一定限度を超えてダムが決壊すると、濁流が下流に押し寄せて住民に巨大な被害を与えます。したがって、ダムが決壊する前に税金でダムを補強する必要があるのですが、ダムの下流からは洪水の様子がよくわからないので、税金を使ってまでダムを補強する必要があるという実感を持ってもらえないのです。
 第四に、メカニズムが複雑で理解されにくいことも不幸なことです。銀行が破綻した時に、その銀行と取引している人は自分の不利益が直ちにわかりますが、「他行と取引している人には、どういう経路でどういう影響が自分に及ぶのか、長々と詳しい説明を受けないとわからない」、という面があります。手が口に食べ物を運ばないと、どうして自分が困るのかを理解するためには、体内の複雑な仕組みを理解しなければならないのと同じことです。


(政治家の思惑)
 政治家が、法案成立が国のためであることを知りながら、思惑によって反対票を投じるケースもあるでしょう。一つは個人の政治家として、今一つは野党の政争の道具として。
 国のために必要な法案に対して有権者が賛成していない場合、個人の政治家として望ましいことは、「自分は反対票を投じて有権者の人気を得るが、他の議員は賛成票を投じるので法案は成立する」ということでしょう。同じ事を多くの議員が考えると、ゲームの理論の世界になるわけです。
 今回の米国では幸いに起きませんでしたが、野党が重要法案を政争の道具として使う、という可能性も考えられます。


(政府の責任)
 一国の経済がバブルに踊っていて、金融機関もそれに同調していたという場合には、バブルを放置していた政府の責任も大きいでしょう。したがって、金融機関の自己責任だと言う事で破綻するに任せるという選択肢は、乱暴すぎるかもしれません。
 しかし、そうした理由で救済しようとすれば、野党に格好の攻撃材料を与えてしまうことになり、法律の成立は難しくなる場合も多いでしょう。


(救済の条件も問題)
 民主主義のコストによって、銀行救済法案がなかなか通らないことが問題ですが、通ったとしても、使いにくいものとなる可能性もあり、これも同様に民主主義のコストと言えるでしょう。
 すなわち、救済してほしい銀行は経営者のクビを差し出せ、といった銀行糾弾条項が含まれる可能性が高いからです。今回の米国の金融安定化法にも、経営者の報酬制限等々の条項が含まれています。そうなると、銀行としては事態が極端に悪化するまで救済を申請しないことになり、事態の悪化を予防するために公的資金を用いる、ということが出来なくなってしまいます。たとえば、銀行経営者としては「自分がクビを差し出すくらいなら、貸し渋りをした方がマシだ」と考えるかもしれません。そうなれば、公的資金注入で貸し渋りを止める、ということは出来なくなってしまうでしょう。


(民主主義のコストを如何に削減するか)
 上記のように、金融危機に際しては、一般の政治課題に於けるよりも遥かに民主主義のコストが大きくなりがちです。これに如何に対処するか、というのは、極めて難しい問題です。
 方策としては、二つの方向が考えられるでしょう。第一は、公的資金を使わない枠組みを考えることです。たとえば、全銀協が社債を発行して資金を集め、各銀行から優先株を購入する、というスキームです。
 第二は、万が一の時に救う金融機関と救わない金融機関を予め峻別し、前者には厳しい業務の規制等々を課し、国民生活に密着した業務だけを行なわせることで、救済に対して国民の理解が得やすいような仕組みを作っておくということです。
 起きてほしくはありませんが、起きないという保障はありませんから、次に金融危機が起きた場合に対する備えとして、議論が活発に行なわれることが期待されます。

 今回は以上です。



 


以 上

本稿は筆者個人の見解であり、筆者の属する組織などの見解を示すものではありません。
また、読者に投資などを勧誘するものでもありません。
TEL: 03-5297-7311 - FAX: 03-5297-7314
Copyright © 2000 CMD Co., Ltd. All rights reserved.
Prev Index Next